1964年東京オリンピックの時に武蔵野市の教育委員会にお勤めだった木村さんに当時の様子をお伺いしました(以下、本人の許可をいただいてお名前と写真を掲載しています)。
インタビュー前にどんな質問をするのか表にまとめたり、司会を決めたり会場をセッティングしたり…たくさんの準備をしても、インタビューは緊張のひと時でした。いつものアットホームな雰囲気とは少し違う、新鮮な回でした。
これからもっともっとみんなでインタビュー上手になっていけたら…!と思います。
さて、気になるインタビューの内容です。1964年の東京オリンピック当時すでに30代だった木村さんは、まったく年齢を感じさせず、地図や写真を指し示しながら熱心に当時の武蔵野市について語ってくださいました。
インタビューの様子 |
聖火が武蔵野市を通ると決まった時、特別に委員会が立ち上げられたそうで、聖火ランナーや伴走者のユニフォームに東京五輪のエンブレムを縫い付けたという木村さん。特に印象深かったのは東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール、マラソンで金メダルを獲ったアベベ選手、柔道で絶対的な存在だったにも関わらず倒されてしまった神永選手だそうです。
当時を熱く語る木村さん。 40年以上市役所に勤務され、助役も務めるなど当時の武蔵野市政の中心的役割を果たされてきました |
当時の武蔵野市『市報』(1964年10月15日号)1面に掲載された写真。 このユニフォームのエンブレムは、市役所の職員が縫ったものでした |
その他にもオリンピック後に、武蔵野市では当時の後藤市長が「ALL市民 ALLスポーツ ALL体育館」を掲げて小中学校への体育館の建設などスポーツができる場所を増やしていったお話や、前回話題になった武蔵野市の銭湯のお話も伺いました。銭湯は当時武蔵野市にあった中島飛行場で働いていた人で賑わっていたのだとか…!
2時間を超えるロングインタビューが終わってほっとした私たちは、吉祥寺で有名な小ざさの最中をいただきながら反省会。メインインタビュアーを務めた紺レンジャーKさん本当にお疲れ様!
次回は本日のインタビューを整理しつつ、発表会に向けてのテーマを固めて行きます。
おたのしみに!
文責:黄レンジャーO
0 件のコメント:
コメントを投稿